学校教育渋滞論 ~~期待したい学校の奮起と塾の節操~~

学校の価値は一言でいえば「出会い」であると思う。出会いとはもちろん、同年代の子どもたちとの出会いもある。先生という親族以外の大人との出会いもある。しかし、子どもたちにとって、最も刺激的な出会いは、「知識」との出会いではないだろうか?

 

 

 

学校の役割は、この「知識との出会い」を、子どもたちに、「より劇的印象付け、興味をそそりかつ存分にあおる」ことなのではないかと思う。もし、それが完全にできたなら、子どもたちは、好奇心を満たす喜びとして勉強に取り組むに違いない。

 

 

 

それは、大いなる理想だとしても、もしそれが一部でもできたなら、1教科ででもできたなら、1授業ででもできたなら、その部分、その教科について、子どもたちは「義務ではなく」興味によって、さらなる高みを目指すだろう。もちろん、子どもたちそれぞれに「響く」部分が違うだろうがそれでよい。何かに興味を持ち好奇心をそそられながら、自ら探求していくという過程が人間成長には不可欠だからだ。それさえできれば、その後に次々に出会う課題にも前向きに取り組んでいけるはずだ。

 

 

 

学校にいる間は、人がわざわざ教えてくれる。でも社会に出れば、学ぶべきものを自分で選択し自ら取りに行かねばならない。特に、これからの低成長時代、そうしなければ生き残れないのだから。

 

 

 

しかし、そういうポテンシャルを持っているはずの「知識との出会い」の演出という学校の役割を妨げているものがある。それが学習塾ではないだろうか。

 

学習塾、特に進学塾は、知識との出会いを演出せずに「点を取る」ためのエッセンスだけを安直に、学校より先に教えてしまう。(なにせ時間は学校の数分の一しかないのだから)

 

 

 

それは、文学作品を読む前に、あらすじだけを教えて感想文を書かせるようなものだ。「勉強」とはそんな風ものだと印象付けられた子どもたちは、そこに何の神秘性も感じずただ作業として勉強を処理するようになるのではないか。進学塾は、(テストの点数という限定的であるはずの尺度によって)他者より勝っていたいというモチベーションによって子どもたちをけしかける。しかし、それは「知識を身に着ける」という行為にとって純粋ではない間違ったモチベーションであると思う。

 

 

 

そして、そのように知識と出会った子どもたちは、学校をどう思うだろう。

 

すでに知っている(とたかをくくっていること)を長々としゃべる先生を尊敬するだろうか?1日の多くを占めるそういう時間帯を楽しいと思うだろうか?そういう生活に充実を感じるだろうか?

 

 

尊敬できない先生、退屈な学校、面倒くさい義務としての勉強。

 

 

 

先生のモチベーションも自ずから下がる。まるで、毎日毎日、ネタバレしている観客に向かって漫才をするお笑い芸人のごとく。

 

 

 

だから、教師や学校の質の低下は、学校だけのせいではないと思うのだ。

 

 

 

話は変わるが、渋滞学という学問がある。交通渋滞の起きるメカニズムを解明する学問だ。ある学者が、孤立無援で嘲笑されながらも周囲に働きかけ続け、ついに国土交通省をも巻き込んだ実証実験にこぎつけた。そして、その渋滞解消理論が証明されたのだ。高速道路の渋滞の中に「車間距離を40mとる」というルールの一団の車群を送り込んだところ、渋滞が解消したとのことだ。

 

 

 

つまり、個々の車が先を急ぐあまり車間距離を詰め、そのことによってブレーキを多く踏んでしまうことが渋滞の原因である。すべての車が40mの車間距離を保てば、ブレーキを踏むことがなく全体がかえってスムーズに流れるということだ。

 

 

 

これって、先の「塾が(その根底には親の願望があるのだが)先を急ぐあまり学校の質が低下し、子どもたちの知識の質が下がる」というのと似てはいまいか?

 

 

 

こういうのを経済学の用語で合成の誤謬(ごびゅう)というらしい。合成の誤謬とは、個々人が合理的な行動をとったとしても、他の多くの人が同じ行動をとることによって、不都合な結果が生じてくることだそうだ。

 

 

 

妻の次のような言葉の中に「教育渋滞」の病根がみえる。

 

 

 

妻が、わが娘に塾が必要な理由として語った言葉である。曰く「学校で習うときには、みんなもう塾で習って知ってるんだよ。そんな中で自分だけ知らなかったら劣等感持ってしまうでしょ!」

 

 

 

私は、そんなことで劣等感を持たない価値観こそ娘に与えてやりたい。義務教育で習うことなど社会で生きていくための道具でしかない。道具を早く手に入れることに何の価値もない。価値はその道具への愛着や、その使い方を思いつける発想力にこそあると。ゆっくりじっくり味わって手に入れればよいのだ。それほど高級品(高度)である必要もない。使っていくうちに熟練すれば高級品に取り換えればよいのだ。

 

 

 

親の目先のニーズのみを汲み突っ走る学習塾の状況を、このまま放置すれば、子どもたちの世代全体の知性の劣化は明らかだ。

 

 

 

とはいえ・・・凛童舎も学習塾を併設している。

 

 

 

しかし、そこでは絶対に学校の先を学ばせないようにしたい。生徒それぞれが、今どこを学校で習っているのかを正確に把握することに務め、習ったらすかさずその興味のあるうちに定着に結び付けることに集中する。コーチングスキルを使って子どもたちの自発性をあおりながら。

 

 

 

子どもたちが学校から持ち帰ったダイヤモンド原石を一緒に磨いてあげたい。あらかじめ研磨されたカットまで施されたダイヤモンドを持たせて学校に行かせてはいけないと思うのだ。

 

 

 

そうやってフォローの万全の態勢を取って、知識との「出会いの演出」に対する学校の健闘を待ちたい。

 

 

 

 

最後に、私の経験について付け加えたい。

 

 

 

私にはとても思い出深い算数の授業がある。それは私に数の世界のいわば「神の見えざる手」を意識させた。その驚きだけははっきり覚えているのだが、その授業を行った先生が誰だったのか全く印象に残っていない。それだけ内容のインパクトが大きかったということだろうか。多分、5年生の授業だろうから、私が生涯で最も尊敬するN先生の授業だったのではないかと想像するのみだ。

 

 

それは、ゆとり教育で消え、ことし5年生の算数に復活した今話題にもなっている「台形の面積」の出し方の授業だった。

 

 

 

先生はまず授業の中で、面積の求め方のアイディアを生徒から募った。対角線を引いて三角形2つの分けて出す案や、平行四辺形と三角形に分けるやり方、あるいは、両端を直角に切り落とし、長方形と三角形2つに分けるやり方などが出された。

 

 

 

その先、先生がどうやったかよく覚えていないのだが、とにかくそれぞれの式を、「これはこれと同じだよね。」という風に式を変形させていき、どんどんシンプルにしていったところ、どの求め方も皆さんが知っている「(上底+下底)×高さ÷2」という公式に収束してしまったのだ。しかも、その式の「考え方」を先生が説明したとき2度驚いた。それが、台形をもう一つさかさまに横につなげて、台形2つで平行四辺形を作り、あとで2で割るという考えだったからだ。

 

 

 

それは、教室のだれもが思いつかなかった求め方だった。そもそも台形の外側にまで思いを巡らすことなど、思考のフレームを打破するような発想が必要だと思われた。「田の字形に並んだ9つの点を4本の直線で一筆書き結ぶには」というクイズがあるがあれに似ている。

 

 

 

全く違って見えた求め方が1つに収束するという驚き、かつその収束先が思いもよらないフレーム外の想定。数学の世界の神秘。これが、私がそのずっと後になって、数学とは、「理論美」の学問であると思い至るきっかけを作ったと言っても過言ではない。

 

 

 

ああいう授業を、年に数度でもよいから学校でしてほしいものだと思う。数学にああいう出会い方をさせてもらって、私は本当に幸運だったと思う。「台形の面積は「(上底+下底)×高さ÷2で求める。それは、台形をもう一つさかさまに横につなげて、台形2つで平行四辺形を作り、あとで2で割るという考えに基づくものだ。」とさらっと流されていたら、私のその後の数学への興味や理解は生まれなかっただろう。

 

 

 

さて、私が1年から5年まで通った大阪府北河内郡交野町立郡津小学校は、今思えば奇跡ともいえる実験校だったと思う。ただの公立小学校でなぜあれほど大胆な試みができたのか?というのは、この小学校には、通信簿もなければテストもなかったのだ。学期末には、200字程度の先生コメントと出欠状況のデータが載ったものを渡されるのみだった。先生お手製のガリ版刷りのドリルはあったが点数はつかなかった。わざとかどうかはわからないが、問題数も、11問とか13問とか霧の良い数字ではなかったので、10/13とか10/11とか問題数分の正解数という形で帰された。

 

 

 

また、やたらと行事の多い学校で年に運動会が2回、遠足が3回、音楽演奏会と音楽鑑賞会が1回ずつあったと思う。音楽演奏会の前1か月は、ほとんどの時間をその練習に費やしていた印象がある。児童会組織も各学級代表として学級委員で構成される「小鳩委員会」と地域の代表として通学班長で構成される「山鳩児童会」という、いわば二院制がとられていた。

 

 

 

さらに、小学2年と5年を受け持ってもらった先のN先生に至っては、「教科書は机の中に置いて帰れ。うちで勉強なんかするな!」と豪語していたのが印象に残っている。

 

 

 

だから、学校生活で「成績」という概念をあまり意識することはなかった。あるのはせいぜいが「よく手を挙げる」とか「まじめ」とかいう程度だった様な気がする。

 

 

 

さて、そのような教育環境で育つとどうなるのか、心配される方も多いと思う。一例に過ぎないが私のその後を語ってみようと思う。

 

 

 

私は小学6年の1学期に、京都府城陽市に転居し、市立寺田小学校に転校した。そこは通信簿もテストもある普通の小学校だった。そこで私は、はじめて極彩色の業者テストに出会った。そしてはまってしまった。きれいな紙面の問題を解くと点数がつくゲームのように思えて楽しみにさえなった。授業についていけないということもなかったので、前の小学校の教育も遜色はなかったということだろう。

 

 

 

それで、ふたを開けてみれば、成績はクラスでトップクラスになっていた。ところが、それがもともとクラスのトップだったNには気に入らなかったらしい。私に嫌がらせをするようになった。しかも、クラスのガキ大将Aと結託して。まるで、政治家と暴力団が結託するかのような構図。この構図のドロドロした感じ、大人びたいやらしさに私は驚かされた。しかも、その私をかばおうとしてくれるのがまたクラスの才女。「私、雨の日が好き」という、子どものの私にはまったく理解できない価値観の持ち主だった。

 

 

 

私は、6年生を飛ばして7年生か8年生に来てしまったのではないかと思ったものだ。

 

 

子どもらしい豊かな情操を養ったのはどちらの小学校なのか?私がはっきり言えるのは、郡津小学校は楽しかったけれど寺田小学校は苦痛だったということだ。

 

 

以上、まとめると、子ども時代「先を急いでもよいことはない。ゆっくりじっくりが最も得るものが多い」という話であるが、保護者の皆さんはどう思われるだろう。

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